その12 「喧嘩、引っ越し、そして父が、、、」

何度目の引っ越しになるのだろう。
龍史くんは3度目、私は兄の部屋に世話になってから6度目、「究極の気分転換」とはいえ、
病の父を残し東上野の家を出るのは、いささか躊躇われた。
冗談のような口喧嘩はあっても、互いに信じ合う仲の良い父子のこと「てめえ、バカ野郎、
出て行けーっ」で、本当に二人して家を出ることになるとは。
なかなか慣れない血液透析に毎回ふらふらになって帰ってくる父と、俳優の仕事だけでは食べられず空いている時間は明るく元気にバイトをする龍史くんがぶつかった。
私が留守の間の出来事だった。もしかしたら、私が原因かもしれない。お父さんも龍史くんも私には何も言わない。
「ルーは早くバイトを辞めた方がいい」と父に言われても、龍史くんに舞台や映像の仕事が入った時に思いっきり集中させたいから、そう簡単には辞められない。父に頼るわけにはいかない。そして私自身も、まだまだ新たな舞台との出会いを求めていた。観たい、経験したい、
そして書きたいと。

半世紀前の血液透析のダイアライザー(透析器)は、部屋いっぱいの透明で巨大な円筒で、その中を長い螺旋階段を巡っているように血液が循環していた。父の様子を見に行った私は一瞬気が遠くなりそうで、壁に手をつき両足を踏ん張っていた。
又、透析食はタンパク質やカリウム・水分の制限が、今の時代よりきつく、一仕事終えての晩酌もできず、私の作る味の薄い食事は江戸っ子の父にとって許し難いものだったろう。
オムライスを彩るケチャップもほんの少しだから、父は私の目の前でジャブジャブとウスターソースをかける。私は重い座卓をひっくり返したくなる。
お盆にいただいたスイカをお仏壇から下げ、父には冷やしてほんの一口、残りは冷蔵庫へ入れておく。翌朝、台所の流しにスイカ半分の皮。居間で新聞を読む父に思わず声を掛ける。
「まさか、まさか、お父さん!?」「ううん?」と顔を上げた父の顔はパンパンにむくんで
いた。
病院の栄誉士から透析食の指導を受けた二十代の私は、少しでも長生きしてほしいと、塩分も水分もきっちり測っていた。
余裕のない私に、父は息が詰まる想いをしていたことだろう。血液透析に通う以外は、自由にしていたかったのかもしれない。

龍史くんは早速、転居先を見つけてきた。トラックは、バイト先の日の出運送さんが快く貸してくださった。引っ越し当日、龍史くんは仕事だったので、竹中さん(現在はお好み焼きのまや徳の店主)を中心に劇団四季の4期生の仲間が集まってくれた。誰も引っ越しの理由は聞かない。
その家は、大家さんの敷地内にあるお母様の隠居部屋だとか、可愛い門から入ると飛び石が三つ、小さな二階建てである。一階のお風呂はお隣の邸宅の庭沿いで、都心にあるとは思えない緑の多さにホッとする。家の前の坂道を上がるとホテルオークラだった。
地下鉄日比谷線の神谷町駅も近く、父のご飯作りに上野へ通うのにも便利だし、龍史くんがピアノ伴奏する赤坂のクラブも、アメリカ大使館の前を通って歩いて行ける。忙しい中、よく見つけたなと感心した。
上野の父は喧嘩などすっかり忘れたかのように、一人暮らしの広尾の妹(叔母)を誘ってやって来た。嫁いだ郁子姉も、命懸けで出産した息子を連れ、時々顔を出してくれた。小さいけれど風情のあるこの二階建てを気に入ったようで、父は透析休みの日に、龍史くんの好きな
「うさぎやのどら焼き」を手にゆっくりと坂道を上ってきてくれた。
私たちも休みの日は東上野の家へ帰り、何事もなかったかのように、三人で透析食と普通食の間くらいの食事を楽しんだ。

1980年に、大家さんの都合でその家を出ることになり、友人の持っていた世田谷の馬事公苑のマンションに移った。3LDKの賃貸費は安く有難かったが、セントラルヒーティングの光熱費が異常に高く、3ヶ月で南青山のアパートに移った。銀座線の外苑前駅、梅窓院の横道を通ってすぐの古いけれどしっかりした建物だった。もちろん、父も叔母もやってくる。その頃になると、次は何?何処?と、楽しみになっているようだった。
「ほんとに勝手なんだから、ね!」と龍史くんは笑いながら言った。ね!はごめんねのね!かな。私も笑いながら応えた「ね!」と。

出産によって「多発性嚢胞腎」が暴れ出した郁子姉は、やはり血液透析を導入することになった。トコトコ歩き出した甥をしばらく預かり、姉の容体が落ち着くのを待つ。慣れない子供の世話で私達も疲れていたが、姉の連れ合いも、その実家も手伝ってくれようともしなかった。父は姉も呼んで東上野の家でしばらく預かり、私がそこへ通うことにした。
さすがに義兄は慌てて迎えにきたが、透析に対する偏見もあり、姉も嫁ぎ先で理解を得るには長い時間がかかった。

1981年(昭和56年)広尾の叔母にも声をかけ、私の拙い透析食風お節料理でお正月を迎えた。お屠蘇がわりに日本酒を少しずついただく。龍史くんはクイクイといきたいところだが、水分を摂れない父の手前、抑えている。薄味にも、水を摂る代わりに氷を舐めることにも慣れた年の始まりだった。
お鍋好きの父だが、水分を考えるとそうそう作るわけにはいかない。雪が落ちてきそうな夜に、久々に牡蠣の土手鍋風を作ってみた。牡蠣もお野菜も、出汁をとる時に使う丸い金網で水分を切って器に取る。具材そのものの水分には目を瞑り、食べすぎないよう注意する。

その日は父と二人きりだった。唐突に父が口を開いた。「あいつは、時間やお金をかけたことは、必ず自分の身につける。今、心配なのは郁子のことだ。ルー、頼むよ」「はい!」
父は味噌味の牡蠣を口に入れて「ルー、今度は牡蠣酢が食いてえな」

その二日後、孫の顔を見に行くと言っていた父のことが気にかかり、無事に着いているかと姉に電話をすると「まだなのよ」と言う。
その途端、私はバイト先から飛び出した。上野の駅から走る。角を曲がってすぐに、大きなラジオの音が聞こえる。ずっと抱き続けた嫌な予感を裏付けるようなラジオからの大きな音声、玄関を開けると居間に通ずるドアが開けっ放しになっている。座卓の脚下に父の銀色の頭が見えた。

俺も走った。原付バイクで赤坂から昭和通りをひたすら走った。本職をやっているときならまだしも、バイト先から駆けつける自分が情けない。どうなるかわからない俺を信じてくれた父にかける言葉がない。「くそーっ!!馬鹿野郎!!」溢れる涙は風で飛んでいく。
      
     

        

💌💌語り手のつぶやき💌💌

思い出すのも辛い、中村の父の死、私の甥や姪には「上野のおじいちゃん」
と親しまれていました。            留美子拝

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