その10 「タコ青年、Day by day 焦る・あせる!」

1974年、タコ青年はロックミュージカル「GOD SPELL」の感動を胸に、Day by dayを口ずさみ、出会った仕事はなんでも経験と、引き受ける日々。
ただ、自分の思い描くようには進まない。少し焦り始めるDay by day(日ごとに)。

「僕は中途半端な二枚目でしょ。クセのない顔で、飛び抜けて二枚目ではないからさ、テレビのオーディションでは、印象に残らないのかな。最終までは残っても決め手がないのかもね、、」
「中途半端な二枚目、言い得て妙!あっ、失礼!」
私は感心して笑ってしまう。
「だから、刑事役、学校の先生、医者、、、もっと面白い役をやりたいんだよね。コメディーが少ないのはわかっているけど、僕が出たら思わず笑ってしまうような役、チャップリンのような、寅さんのような」
「テレビでは無理でも、舞台ならあなたの好きに作ることが出来るんじゃない?」
「そんな能力、僕にあるかな?」

TBSの連続テレビ小説、萩尾みどりさん主演の「わたしは燁(あき)」で四季の先輩、矢崎滋さんと偶然一緒になった。共に明治時代の詩人の役柄であった。
二人共、勢いこんで芝居をする。すると、演出の福田さんが「あのね、ここは日生(劇場)
じゃないから、そんな大きな声で芝居をするなよ!マイクがあるんだよ!マイクが」

調子に乗ってしまう自分を反省しつつ、次の仕事に向かう。
熱海のニューフジヤホテルのショーで三浦布美子さんの「蝶々夫人」、良二くんは恋人のピンカートン役、久々に金髪に染めて臨む。元々ピンクがかった色白の肌に鳶色の瞳だから、ちょっと見、外人ではある。良二くん以外は皆、女性なので、彼は少し離れた寮で数ヶ月を過ごした。ダンサーのお姉さんたちは最初の頃、決して話しかけてこなかった。
「だって、日本語は通じないと思っていたから」と。
ピンカートンはショーの最後に漸く出て来て蝶々夫人と踊る。そこで、フィナーレとなる。
楽だが面白みがない。
そこで良二くんは、終演後は毎夜、ショーの会場にあるグランドピアノを思いっきり叩き、
バーボンウイスキーを片手に知っている限りの歌を歌い、翌朝は早起きして熱海の街を走る。漁協のおじさんの許可を得て昼は海岸沿いで釣り糸を垂れ、ついでに潜って夜のつまみの貝類を取る。
金髪をなびかせ走るピンカートンを熱海の住民は快く受け入れ、毎朝手を振ってくれる。
そんなことだけでも、良二くんの心は満たされていくが「一番やりたいことを忘れてはいけない」と笑顔で手を振り返しながら、自身に言い聞かせていた。

そんなある日、彼のお父さんが体調を崩した。
休演日に急ぎ東京へ戻った良二くんは、医者嫌いの父親に「築地の聖路加の近くに、ホットケーキの美味しい店があるんだ。診てもらったら、帰りはそこでおやつにしよう」と。
甘いもの好きな父親は、牛に引かれて聖路加検診、苦笑いしながら付いて来た。
私も心配で付いて行く。
やはり重篤な状態だった。医者は「1日も早く透析を導入しないと」と。その日は帰ることを許されたが、ベッドが空き次第入院となった。
家に戻ると、お姉ちゃんと良二くんと私とで顔を寄せ合って相談する。腎臓病で母親を早くに亡くしている姉弟にとって、腎臓の病は仇敵のようなものだ。ただ、母親を亡くした1961年よりも、医療も保険制度も大きく進み、人工透析も保険治療でできるようになっていた。
とにかく、翌日は人工透析の手続きをするために台東区役所へ走った。「お父さんは助かる!」
それだけで、3人共笑顔になった。
お父さんは6つの瞳に囲まれ「仕方ねえなぁ」と透析治療の覚悟を決めた。

その時、リーンと黒電話が鳴った。四人でドキッとする。お姉ちゃんが目と眉で、良二くんを促す。慌てて受話器をあげた良二くんが、うんうんと頷きながら笑顔になった。
「恩田が結婚するって!挨拶に行っていいかって」
近所に住み、高校の野球部で一緒だった恩田くんは留守がちな良二くんに代わり、甘いものを買ってはお父さんの様子を見に来てくれていた。
「相手が、僕の中学校の同級生の市川さんだって」
妙な緊張がほぐれ、お父さんが言った「、、、めでてえな!」

それからの良二くんは、昼間が空いていれば、朝から八丁堀の運送屋「日の出運送」でトラックの運転手、夜が空いていれば、四季の同期生・ピアノの名手クマちゃんから紹介された赤坂のクラブでのピアノの伴奏。カラオケのない時代だから、どんな曲でもリクエストがあれば赤本(歌謡曲をはじめ諸々の楽曲の楽譜が載った本)を頼りにピアノで伴奏し、たまにリクエストがあれば弾き語りまでしてしまう。昼間はトラックの荷下ろしで汗をかき、夜は冷や汗をかきながらピアノの伴奏、汗と涙と筋肉痛の日々、合間にテレビのドラマ出演をこなす、働き虫の良二くんだ。
「これじゃあ、本末転倒、俺は、ほんまつテントウ虫だぁ」トラックのハンドルを握りながら思いっきり叫んだ。

1975年、3月、互いに神輿の担ぎ手として知り合った恩田と妙子ちゃんは、僕の拙い司会で花川戸産業会館で挙式。木遣りの歌の中、番傘をさしかける新郎、提灯を手にする新婦の登場で江戸前な披露宴が始まった。慌ただしい毎日のなかで、久々に人心地がつく幸せな時間だった。
ところが、ホッとしたのも束の間、病院での検査の結果、父の病は優勢遺伝の多発性嚢胞腎が原因であることがわかった。と言うことは、親類縁者も検査をするように伝えなくては。もちろん僕も姉もだ。
今は元気な自分の身体のこと、急に降って沸いた姉のお見合いや、父の先々のこと、想像力が揺り動かされ、思わず悪い方向に考えてしまう。思うように仕事に恵まれないのも後押しをする。

ええい!大ちゃんの稽古場で大先輩の俳優と共に思いっきり汗を流そう。
稽古の後は、六本木の明治屋(当時)の裏あたりの「カファブンナ」という珈琲屋で大先輩の芝居や音楽の話を聞く。そして、アンテナに引っかかったものは、バイトで貯めたお金で、何でも観に行く。現実からの逃避というより、夢を再確認する行為だ。

ライザ・ミネリが来日、NHKホールで日本初のライブが開催されると聞けば、るみちゃんと二人分、一番良い席を抑える。アメリカへ出かけることを考えれば安いものだ。もちろん今の僕らにとっては大変な贅沢だ。映画の「キャバレー」より太ったライザが、目の前で歌い踊る。曲替わりで後ろを向き世界を引きずるように下がると、次は身体ごと前を向く、もう先程の世界とは異なる空気を背負い前に歩いてくる。ウエストあたりの贅肉までがセクシーに見える。
僕らは一緒に口ずさみ、彼女のエネルギーに圧倒されていた。
これでしばらくは、僕は優しい人でいられる、二人の夢を見続けることができる。

1978年、4月、渋谷パルコ劇場 森茉莉原作 美輪明宏演出主演 「枯葉の寝床」に出演。
俳小の劇団員だった鷲巣輝文(現在・照織)さんと、教育大のサッカー選手だった山田仁夫(芸名はその後ロッキー)さんと知り合う。
78年から79年にかけ、テレビドラマ「西遊記」「西遊記Ⅱ」に出演。
関西テレビ制作 篠田三郎主演「一発逆転」に出演。奥田瑛二さんと知り合う。
天知茂主演「雲霧仁左衛門」出演。

無名の俳優が、舞台やテレビの仕事をすることにより、人脈を広げ、仲間も得られるが、
とんでもない方向に導かれることもある。
どの道でも、出し惜しみせず精一杯やることで、新たな道が開かれることもある。
1970年代、良二くんの二十代は切なく、激しく、愛おしく。
70年代後半で大きな転換期を迎えることになる。(その11へ続く)

💌💌語り手のつぶやき💌💌
1970年代は、多くの出来事に振り回されても、若さと能天気さと信ずる力で、乗り越えられたのかもしれない。若さは歳を重ねれば無くなっていくものだが、歳を重ねて蓄えた知恵や精神力は、人が生きるenergyとなって人生を支えてくれる、と思いたい今日このごろ。
                                  留美子拝

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