「『劇団四季演劇研究所』の4期生になった!」

黒澤明監督の『虎・虎・虎!』は幻と消え、なんだか納得の行かないまま、監督が交代し、
とりあえずタコ青年は最後まで撮影に参加した。終了した時には、お父さんの言う大人の
劇団、世間に認知されている劇団の、養成所・研究所の募集も終えていて、良二君は演劇浪人になっていた。
致し方なく、本屋の倉庫でバイトをする。演劇の本は高いので、倉庫で働いていれば演劇の本も安く手に入るかもしれない、そうだ、たまには活字の中に埋もれてみようかと、選んだ
バイトである。ところが、活字に埋もれると言うより、紙ぼこりに埋もれる日々。咳き込みながら、自分自身と向き合い、今後を考えてみるのも、ま、いいか!
その演劇浪人時代、フランス古典喜劇を完成させたと言われるモリエールの「スガナレル」と「スカパンの悪だくみ」に出演していた。その経緯は分からないが、社会への第一歩は、やはり喜劇から始まっている。

1960年代後半から70年にかけ、一世を風靡したグループサウンズは下火になり、日本でも
フォークソングが台頭し、学生運動は激しくなる一方。行き場を失った大学生、高校生が
どっと流れ込んだのではないかと思われる新劇のブーム。
新劇とは『明治末期にヨーロッパ近代劇の影響を受けて生まれた、リアリズムを主体とする演劇で、歌舞伎などの伝統演劇を旧劇とし、それに対していう(明解国語辞典)』とあるが、もっと深く詳しく知りたい方は、ご自身で納得がいくまでお調べくださいませ。

その新劇ブームの真っ只中、文学座の養成所は2000人からの応募があったと言う。大学は出たけれど組、やってらんない中退組、色々事情を抱えた浪人組などがこぞって、演劇なるものを覗いてみるかと、入所試験に臨んだのではないかと思わせる人数だ。

新劇らしからぬ明るさと豊かさを感じさせた浅利慶太氏主宰の劇団四季は日生劇場を拠点とし、ラシーヌなどの古典(アンドロマク・フェードルなど)や、アヌイやジロドゥなどの
フランス演劇を中心に、オリジナルの子供のミュージカルを上演していた時代である。
さて、タコ青年は、四季の子供のミュージカルが好きで何度か日生劇場へ足を運んでいた。
祖父が歌舞伎の大道具で付け師、父は袖幕から芝居を観、親子の会話には歌舞伎の名台詞が飛び交い、江戸時代のエンターテインメントが息づく家庭で育ったからか、日本のオリジナルの舞台・演目にこだわりがあった。自分の時代に合った、面白いエンターテインメントは何なのか、、、子供のミュージカルの楽しさにも惹かれ、いろいろと観て考えた結果、劇団四季の演劇研究所を選んだ。
さて、どうしたら審査員の印象に残るのか、誰より目立つのか、浪人生活を無駄にしないよう、考えに考えて一つの結論にたどり着いた。

1970年(昭和45年)劇団四季演劇研究所の入所試験は日生劇場での1次試験がペーパーテスト、2次試験は参宮橋の四季の稽古場で、渡された台詞を読み、簡単なステップ、歌を一曲という実技試験があり、最後に面接があった。
タコ青年、ここは気合を入れて俯くことなく、まっすぐに審査員を見つめた。
この日のために、西武池袋線に乗り、知らない街の知らない美容室で、初めてパーマをかけた。始めて髪を染めた。その結果、ヌヌヌヌ、ただの金髪チリチリ頭、金色カリフラワーオバサンになってしまった。料金を支払うと逃げるようにお店を飛び出し、駅に戻る途中にあった公園の水飲み場で、思いっきり髪を洗った。
濡れた髪のまま、電車に飛び乗り、上野駅から家まで走った。お姉ちゃんより早く家に帰りつかなければ、、、、、、そこまでして手に入れた、金髪フワフワ頭である。
「中村君、君は(髪をじっと見ながら)、『HAIR(ヘアー)』に出演していたの?』

「ア、ハ、ハ、、イエ」と、タコ青年は笑いながら、金色のロングヘアーを横に振った、
頭の中では、『アクエリアス』と『Let The Sunshine in』が交互に駆け巡る。

『ヘアー』は前年の12月に渋谷の東横劇場で日本初演、主演は俳優の寺田稔、元『ザ・タイガース』の加橋かつみ、他は一般公募のオーディションで選出、ロックミュージカルのルーツとも言える作品だが、その頃新宿の地下街でも、ヒッピー風ロングヘアーのお兄さんたちがたむろし、ボブ・ディランを気取っているのか、ギターを掻き鳴らし反戦歌を歌っていた。

「中村君は甲子園を目指していたの?」
「はい、教室を素通りして野球部に通っていました」
そこで、審査員の日下武史さん(俳優)は、ふふっと笑った。

プロフィールには、ファーストを守り4番を打っていた、と書いておいた。
新劇団対抗の野球の試合があることは知っていたし、ペーパー試験は勿論のこと、実技もダンスのステップ以外は自信がない。
何でもいい!何かしら引っかかってくれれば、きっと受かる。タコ青年には根拠のない自信があった。

劇団四季も1200人からの受験があり、女子12名、男子14名が合格した。他に広島の放送劇団から2名の研修生もいた。タコ青年には初めて、タコというあだ名を知らない25名の同期の仲間ができた。自己紹介の折、金髪のロングヘアにも負けない明るさで「僕は歌も踊りも得意なので、この劇団は僕にピッタリだと思います!」
この挨拶と突き抜けた明るさ、19歳になったばかりという若さに、同期は皆驚いた。
女子には、電車で一緒になろうものなら、敢えて次の電車を待つと言うほど、最初のうちは
敬遠されていた。

家では、父は合格は当たり前という顔で仕事の手を休めなかったし、お姉ちゃんは「へーえ、りょうじ、その頭で?!」と。それでも合格発表の夜は特製ロースカツを揚げてくれた。
父に言われる前に「この近くでバイトを探すので、入所金など何も心配しないで大丈夫!
です」と、戯けて言うと、これも又、当たり前だという顔をされたが、この先、ことある度に、父と姉には世話をかけたいう自覚はある、良二君だった。

バイトは御徒町駅近くのスナック「いさ」で、カウンターに入りお酒を出し、おつまみを作り、りょうじ特製の干し椎茸の出汁を効かせた鍋焼きうどんも作り、明け方まで働いた。劇団俳優座の俳優がオーナーの店だったので、ありがたいことに劇団での行事を優先させてくれた。

ただ、朝までのバイトなので眠る時間も余り無く、遅刻をしないためには早く出かけ、劇団
近くの明治神宮や代々木公園の芝生で眠った。いつでもセーターやTシャツには芝が付いて
いた。
そんな大陸的なおおらかさを仲間も受け入れ、同期の年少者として「りょうじ」と呼ばれ、睡眠不足だろうがお金が無かろうが、仲間と飲み語らい、授業を受ける日々が続いた。
男子は、いーちゃん、イシ、シューヘイ、ジュン、セリ、タケ、トーチャン(トンコウ)、
トクジ、、トシ(タジオ)、ナオキ、ミヤ(呼び名・アイウエオ順)、、、佐藤功、彼は、ブロードウェイに進出しソンドハイムの『太平洋序曲』に出演、トニー賞の助演男優賞の候補に
なった。
女子は、文学少女のアチ、ピアノのクマ、トミ、マリ、ユーコ、、、他にも7名の女子が居た。

良二君は授業が始まる前に誰より早く稽古場に行き、勝手にピアノを叩き、歌った。ピアノを習ったこともないので独学である。見るに見かねてクマが手ほどきをしてくれた。同い年のクマはその後、越路吹雪さんの歌稽古のピアノを弾いた名手である。
ピアノは少しずつ上手くなっていたが、、、

ある朝、ようやく手に入れたコンセプト・アルバム、アンドリュー・ロイド・ウエーバーの『ジーザス・クライスト・スーパースター』を大音量でかけていた。稽古場の隅々に届く音量にウットリした良二君は、その時、その大音量に負けないほどの音量で「うるさーい!!
いい加減にしろ!」と怒鳴られた。その声はまぎれもなく浅利さんであった。
当時の四季は、ミュージカルといえば、『子供のミュージカル』、フランス演劇の上演が中心であったので、かつて耳にしたことのない大音量の楽曲に、まさに崇高な朝のひと時を汚されたかのような浅利さんの怒りであった。
この素晴らしい楽曲がわからないのか!と心で呟き、「すみません」と一応謝る。
その数年後にロック・オペラ『ジーザス・クライスト・スーパースター』は四季で上演されるのだが。。。
浅利さんに叱られようが、朝の稽古場は良二君にとっても崇高で大事なひとときであったから、全くめげずに、レコードをかけ、ピアノのレッスンも続けた。

研究生の授業では、滑舌・演技・遠劇史、歌、地唄舞、バレエ、ジャズダンスなどがあったが、男子はタイツ姿が恥ずかしく、タイツの上に海水パンツを履くと言う一手を思いついた。
良二君はバレエシューズの代わりに、足裏がゴムの地下足袋を履いて、滑らなくて良いと皆に勧めるほど気に入っていた。
中学生の頃、ローリング・ストーンズや、ビートルズの『抱きしめたい』などをかけては家で一晩中踊り続け、高校生になってからはジャズ喫茶通い、身体表現が好きで、目で見た形を身体に刻むのが早い、巧い彼にとって、何より先生に付いて習えるのは初めてだし、嬉しく楽しかった。

演劇史の授業はひたすら眠く、そんな時に野球の試合があると、選ばれた者は勇んで試合に参加し、残された男子と女子は応援することで授業は出席扱いとなった。
同期に甲子園にピッチャーとして出場したトシがいたので、良二君は浅利監督から「お前なら受けられるだろう」と、キャッチャーを仰せつかった。いやいや、キャッチャーは恩田だし、僕は顔では受けられないし、役者は顔が命だし、グルグルと頭を巡らせていたが、致し方ない、同期に運動神経が良い奴は見当たらない。
トシの球威は早く重く、甲子園を目指すとはこういうことかとその時に悟った。
新国劇との試合で、緒形拳さんに「いい肩、してるね!」とニコニコ笑いながら肩を叩かれて、何だか嬉しい良二君でもあった。

小田急線での帰り道、何でも真面目に耳を傾けてくれる仲良しのジュンと一緒だった。
先頭車両に乗った良二君はいきなり発声練習をするのかと思うほど大きな声で
「劇団四季の中村良二です。今はまだペーペーの研究生ですが、必ず日本を代表する役者になりますので、皆さんよろしくお願いします」とスピーチした。
子供の頃のタコ少年を知る者にとって、信じがたい暴挙である。
座って居る乗客も、まばらに立つ乗客も、知らん顔をしている。
一緒にいたジュンは、恥ずかしさも通り越し、どんな演劇論を吐くより、何でも実行してしまう彼ををしばし見つめていた。「やはりすごい、りょうじは誰より面白い!」
ジュンさんともその後、長いお付き合いになる。

💌💌語り手のつぶやき💌💌
四季時代の話は、アチさん始め同期の女子会の皆さんと、大阪のジュンさんの思い出話と、
中村から聞いた私の記憶と少しの想像を繋いで書いたものですが、大きな記憶違い、
カン違いがありましたら、是非、お知らせください。すぐに確認し訂正いたします。四季時代の話は、もう少し続きがあります。12月の1日にこの語りを更新し、その続きは中旬に更新
予定です。是非、続けて読んでいただけたら幸いです。
中村語りの度に、中村の人生に関わってくださった皆様にご協力いただき、
心より感謝申し上げます。      留美子拝

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