「何でもやってやる!ニューヨークへ行くんだ!」

良二君は四季の劇団員になる前にクビになった。
納得はいかなかったが、そうなっても致し方ない稽古場での日々、演出のダメ出しにも上手く従えなかった。
その上、二十歳の良二君は地方公演でも大暴れ。
島根公演で宍道湖沿の旅館に泊まった時のこと、浅利さんが今日は舞台を観ていない、ダメ出しもない、と聞いた途端、どうにも止められない開放感が疲れ切っている身体中の感情を爆発させ、食事の後に飲んで飲んで飲んだ後、その部屋にある家具の全てを宍道湖目掛けて投げ込んだ。良二君は「フフフ」と不敵に笑い、倒れるように寝てしまった。
大部屋に男女別れて数人ずつ泊まる地方公演中だ。1970年初頭、現在のようにビジネスホテルのシングルルームがあるわけではない。
翌朝、旅館の中居さんが、庭に散らばる壊れた座卓、座椅子、宍道湖にぷかぷか浮かぶ家具を見つけ腰を抜かし、制作へ連絡、制作は慌てて浅利先生へご注進に及んだらしい。

地方公演での研究生は、劇場に着くと、道具を仕込み、衣装は各楽屋へ、小道具を点検し、それから自分のメイクをし、衣装を着け、出演する。終演後は素早くメイクを落とし、小道具・衣装を片付け、道具の全てをバラしてトラックに積み込み、次の公演地に向かう。これを乗り打ちと言うのだが、体を休める暇もない研究生に不満が無いわけではないので、その日、心身ともに解放された結果「中村良二をはじめ、研究生が暴れた!」になった。
他人と目を合わすこともできなかった良二君の成長というべきか、箍(たが)が外れた、壊れたというべきか。
ご本人は、翌日は二日酔いでゲーゲーぐーぐー眠っていた。

その当時の四季の研究生が、先ず最初に持たされたのが自分の名刺だったという。地方公演では、時間の許す限り、名刺を持ってその日のチケットを売りに行く。金髪や茶髪の若者は地方では珍しい時代、「あっ、サーカスだ!」と指差される中で、四季のお芝居を説明し、お母さん方に売る。
観に来た子供らが大人になり、又、その子供の子供が孫を連れて劇場へ通う。半世紀以上前に、この先何十年にも渡り劇団四季の観客を増やす、続かせる、その壮大な目標を立てていたのだろう。
その礎を作った時代だ。「僕らが地方で売る一枚のチケットから始まった」と。

フランス演劇と子供のミュージカルの二本立てだった四季の過度期だったのかもしれない。
研究生が名刺とチケットを手に地方公演へ臨んだ時代から半世紀以上経った今、「劇団四季」はチケットの取れないミュージカル劇団、観劇することが文化好きのステイタスになっているとも聞く。

「劇団四季の『オペラ座の怪人』はすごいらしい」このキャッチコピーを何度も聞くと、
「劇団四季はすごいらしい」に、だんだん聞こえて来る。これもスゴイ!
観客にとっては、世界の誰が創ろうが、外国から買ってこようが、ロイヤリティを払おうが、観客自身の琴線に触れ、明日への活力になればいい。
ただ、舞台の創り手には、世界各国相手にロイヤリティを支払わせてやろう!という気概はないのだろうか。1980年以降、龍史君と私は、日本から海外に発進できるオリジナル作品を目指し、面白おかしい試行錯誤の日々だった。

さて、1971年の良二君はとにかくクビになったことを冷静に受け止め、家族には謝るしかないと自身に言い聞かせた。お父さんは多分何も言わないだろう、お姉ちゃんとの攻防は、作戦を立てて臨もう。傷つく前にあの口を塞ごう。
「あのさ、俺ね、四季をクビになったんだ」
「えっ?えっ!えっ?」と目を見開くお姉ちゃん。
「俺はね、映画やテレビの方が向いてるってさ、浅利さんが」
「でも良二は舞台が好きなんでしょ」
「まあ、そのうちに、自分が好きな面白い舞台を創るよ」
仕事をしている父にも聞こえているはずだが、その背中はびくともしない。
「ふーん、、、私もね、あの正面切ってセリフを言うの、良二に合わないと思ってた」
「ええっ、そう思う?俺はね、あの形の中に心が入らないんだ。だから」
「だから、あれは粋じゃない、野暮よ!心意気を感じないもの」
お姉ちゃんの、粋・野暮説がここで始まるとは思わなかった。
「俺ができなかったのは事実だからさ。まぁ、俺なりに色々やってみるから」
まさかの展開、ここでお姉ちゃんを慰めることになるとは。
彼女は急須を持って立ち上った。「何だか、バカにした話よね!」
台所との間仕切りのガラス戸を開けたと思った瞬間に、閉めた。
「あっ!!」思わず叫ぶ。
下町のサザエさんは、自分で開けて閉めたガラス戸にぶつかり、華麗に盛大に急須を飛ばす、茶こぼしの技を見せてくれた。何だか僕はスッキリした。

四季をクビになったので、知り合いから勧められるオーディションをとにかく受けた。
ニール・サイモン脚本の「スイートチャリティー」、宝塚を退団したスータンこと真帆志ぶき
さん、相手役は石立鉄男さん。宝田明さん、マイク真木さんも出演されていた。
僕はダンサー枠でオーディションを受け、ボブ・フォッシー振付のRich Man’s Frugで、タバコを手にして踊る役柄に。本物のタバコの煙をフーッと吐き出す振りが何度かあるのだが、僕はタバコを吸えない!その度に「ゴホゴホゴホッ」とむせる。吸わなくていいし、どうしたって吸えないし、ふかすだけ、と言われても「ゴホゴホゴホッ」。僕は何とか本番までに、口の中に煙をためて「フーッ」と吹き出す秘技を編み出した。少し涙は出たが。
千秋楽も余裕で「フーッ」と吹き出したが、それより何より、舞台の小道具で稽古から公演の間中、面倒をみたペキニーズ(犬)との別れが辛く、仕事の行き帰りに青山通りのペットショップを覗きに行っていた。

その頃、生まれて初めて師匠と呼べる振付家の大ちゃんこと、村田大さんに出会う。元々日劇のダンサーで、その独特の感性から後に劇団円の演出もされていた。海外の演劇・音楽の情報に詳しい大ちゃんの多大な影響と、「スイートチャリティー」出演をきっかけに、良二君は海外の作品に目が行き、ニール・サイモン、ボブ・フォッシー、アンドリュー・ロイド・ウエバーの舞台が観たい!ニューヨークへ行きたい!その想いは日に日に募る。
資金調達はどうするか。悶々としていたその時、やはり知り合いからの勧めで、映画の話が舞い込んだ。
「日活ですか?」
僕の頭の中は、裕ちゃん、ルリ子様が駆け巡る。
「その、日活のね、今、勢いがあるロマンポルノって知っている?」
聞いたことはあっても観たことはない。
「今ね、若手の俳優の登竜門みたいになっていて、風間杜夫とか蟹江敬三とか出ていて」
「はあ、、、」
「カメラテストに来て欲しいんだけど、、、ニューヨーク行きの資金がほしいって?」
「はあ、、、、、」
たしかにちょっとやそっとのバイトでは貯まらない。
お父さんとお姉ちゃんの顔が浮かぶ。
「少し、考えさせてください」と言っても、相手に押し切られ、結局引き受けることに
なった。

もうこうなったら、何でもやってやる!そのギャラでニューヨークへ行くんだ!
思えば、17歳で黒澤監督に出逢い、19歳で浅利さんに学んだ。

十代で、こんな経験はなかなかできるものではない、怖いものがなくなったような気がして
くる。

西村昭五郎監督で主演女優の相手役二本、田中登監督には「初めて男を主役にして撮るんだから頑張れよ!」と肩を叩かれたが、主演の相手だろうが、主演だろうが、脱いで濡場を演ずることに変わりはない。お父さんには遠回しに話し、お姉ちゃんには内緒にしておこう。
ええいっ!!と、良二君は清水の舞台から飛び降りた。

日活撮影所に通う日々のなか、違う空気を吸いたくて総選挙のコマーシャルフィルムの
オーディションを受けた。社会党を支持する若者の役だったと思う。ロマンポルノに出ている役者が受けて良いものかどうか、わからなかったが、空気が変われば僕は何でもよかった。
学生やいかにも劇団の研究生という形の若者が驚くほど集まっていた。順調に最終審査へ
進んだ。
最後に呼ばれて行った部屋に、女の子が椅子に座っていた。そこだけが光っている。竹の中のかぐや姫か?、、あっ、ペキニーズだ。あの別れがたかったペキ、正確にいうとペキニーズ顔の女の子が座っていた。この子と一緒なのかな。いや、もう一人、その先に太った気の良さそうな学生顔の男子、、、この三人が合格者だった。
帰り際、僕は迷うことなく、ペキニーズ顔の彼女に声をかけた。1973年11月6日のことだ。   (つづく)

💌💌語り手のつぶやき💌💌

2026年の幕開けが、中村と私の出会いで恐縮ですが、彼の二十代は役者に心を残しつつ、
興味あることには何でも突き進んでいくなかなか激しい時代でした。
さて何を選んでお伝えしようか。。。月一回の更新では、かなりの期間を要するので、
「中村語り」はできれば月2回の更新を目指したいと思っています。
本年もよろしくお付き合いくださいませ。  

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