長く薄暗いトンネルの中程に、独り背を向け、砂で山を作っては崩している小さな男の子、そこだけはスポットライトが当たっているのか、明るい。
「りょーじくん、良二くん、龍史くーん!」
背後から呼びかけても聴こえない。右耳は聴こえず、左耳と相手の口の動きでコミュニケーションをとっていた。だから、私のポジションは常に彼の左側だった。左側から話しかけないと聴こえない。焦るが私は動けない。いつもなら、誰より敏感に気配を感ずるのに。
「りょー・じ・くーん!」
ようやく振り向いた。あっ、微笑んだ。
すぐにまた呼びかける。
「龍史くん!」
自分の声で目が覚める。
良二くんのお姉さん、3歳上の郁子ちゃんがよく話していた。
「良二はね、近所のお友達と遊んでいても気づくとそこに居ない、本人は居るんだけど、心がお留守になっているというか、独りトンネルの中で遊んでいるような子だったのよ」。
繰り返しこの話を聞いたからか、郁子お義姉ちゃんも龍史くんも遠い彼方に吸い込まれるように旅立ってから、何度も何度も夢にみる。 「孤高の子供」なんて可笑しいけれど、そんな気もする。
昭和26年(1951年)3月25日、良二君はこの世に誕生した。
良二くんの母親は六人姉妹の四女で、姉妹仲も良いからか、西永福にある長姉の家で、お盆やお正月には集まっていた。
そんな折に必ず、良二君よりひと回り年上の従姉妹の幸子お姉さんが「良二はね、もう何とも可愛かったのよ!綺麗な赤ちゃんだったぁ!下町の團十郎と言われてね、ご近所のおばさんたちが代わる代わる抱きにきていたもんよ!」彼と同じように色白の幸子お姉さんは、集まる度に我が事のように自慢げに話した。
良二くんの父方の祖父は、長谷川道具の大道具方で、名人と謳われた六代目尾上菊五郎の附け打ち(舞台上手で、役者の演技にあわせ、ツケ板をツケ木で打つこと)もしていた。下町の情報通から出た、ほんのお世辞だったかもしれない。
その祖父は日本橋白木屋の前の通りを隔てたしもた屋に住んでいて、良二くんの父親もそこで生まれ、関東大震災の後に南稲荷町(現在は東上野)へ移り、良二くんは、そこで育った。
中村家は代々、長男の名前には一郎、太郎を避け、祖父は福次郎、父は常次郎、そして彼は良二と名付けられた。
その昔、五歳までは神の子と言われたらしい。早々にあちらの世界に連れて行かれないよう、跡取りに女の子の格好をさせたり、小さいうちは女の子のような名前で呼んだりとしたと聞いた記憶がある。中村家も跡取りが育たなかったのかもしれない。
神の子の領域を抜けた良二くんは、幼稚園に通う歳になった。
入園式当日、母親に手を引かれ浅草合羽橋の先にあったその幼稚園へ向かう。
帰りにお母さんと一緒にアイスクリームを食べる約束もあったし、それに釣られて、乗り気では無かったがトコトコついて行く。
その入園式が始まってすぐに園長先生が
「では皆さん、一人ずつ、大きな声で自分のお名前を言いましょう」
園長先生の言葉を聞いた瞬間、その意味することはすぐに理解し、小さな頭の中はグルグルまわり始めた。アイスクリームどころではない、何もいらないから帰して。
彼は焦った。家族の中でも話さないのに、何故にこんなにたくさんの知らない人ばかりの中で、声を出さなきゃいけないのか、恥ずかしい!恥ずかしい!なんとかしなきゃ、、、五歳になったばかりの彼は考えた、その場で泣く?それも恥ずかしい、お手洗いに行く?それも先生に言わなきゃならない、そうだ、今、さっさとここから出て行く、おかあさんはどこ?なんだか目が霞んできた。
どうやってそこから逃げ出したのか憶えていない。
どうしよう、どうしよう!気づくと大きな通りに出ていた。
今日、初めて毋に連れられてきた道を、犬のように感覚だけで戻ろうとしていた。
誰か僕を知っている人に会ったら、なんと言えばいいのか、黙って家まで連れて行ってくれないか、早くうちに帰りたい、、、知っている街角を目にしても霞んでみえない。必死に走る。ちっとも前に進まない。
「あっ、通りの向こうにトリー(鳥居)が見えた。きっとシタヤジンジャだ、お祭りの時にお店がいっぱい出る、お姉ちゃんと来た。ここからはわかる、だいたいわかる、、、」
早く、早く走る。
「凧やのおじさんちを過ぎた。角を曲がったら、床屋さんの赤と青がグルグル回っている。
その隣がぼくんちだ」あと少し、もう少し、、、そこから先は全く憶えていない。
「冗談じゃねえや、こいつぁまったく、、」
父親は呆れ返っていたが、それ以上は何も言わなかった。
家でも口数は極端に少なく、長屋の路地でひとり遊びをする息子が、入学前に少しでも団体生活に慣れるようにとの親心だろう。
「てやんでぇ、この野郎!馬鹿野郎!」枕詞のように、いささか乱暴に聞こえる言い回しから、父親の会話は始まる。しかしこの先も、言葉とは裏腹に決して息子に無理を強いることはなかった。父親も相当にシャイな人だった。
神様が預かっていた5年を過ぎ、結局、幼稚園へは通わず一年が経ち、
昭和32年(1957年)4月、歩いて1分足らずの西町小学校(現在は廃統合され、跡地は永寿病院に)へ入学した。
本人の知るところではないが、もてはやされた『下町の團十郎』は、いつの間にか影をひそめ、入学するとすぐに、同級生からあだ名を付けられた。
授業中に先生が「ハイ、中村君!」と指す。それだけで顔を真っ赤に染め俯く。
「僕は手なんかあげてないのに、何故、先生は僕を指すの?何故、みんなも僕を見るの?」と心の中で叫び、相変わらず恥ずかしい恥ずかしいモードに落ちて行く。
貰ったあだ名は「タコちゃん」。
現代のような薄ら優しい時代ではなかったので、子供は見たままを言葉にする。思いやりがないわけではなく、個々の違いを認めて他と区別するために、親から貰った名前ではなく新たに仲間がつけた名称だ。嫌だと言うより、やはり「何だか恥ずかしい」。
タコちゃんに慣れ始めた低学年の頃、小学校の隣の西町公園の高鉄棒で、中学生のお兄さんがグルグル回転しているのを見て、「わぁ、カッコいい!」とすぐさま真似をした。タコちゃんには僕にも出来る!根拠のない自信があった。
高鉄棒によじ登り回る姿勢をなんとかとった、その矢先、小さな身体を支えきれず、前方へ飛んだ。
あっ、落ちる、砂場が近づく、ぶつかる、気付くと砂場とその角に顔をぶつけ、腰を傷め、動けなくなっていた。
声も出ない!偶然、みつけたご近所さんが居職の父親に知らせ、大慌てで病院へ担ぎ込まれた。顔は腫れ上がり、腰は立たない。数ヶ月、コルセットを付け、負傷した力士の治療で有名な池之端の整骨院へ通うことになった。
当然、学校は休むことになり、放課後、担任の先生が遅れている科目を教えに来てくれた。そんな特別扱いも恥ずかしいタコちゃんだった。
クラスの友達からお見舞いのお手紙もたくさんもらった。
皆、一様に「タコちゃん、お元気ですか」から始まっていた。お元気なら、学校に行っているよ、と、タコちゃんはその度に心の中でブツブツ。
「みんな心配してくれているのよ。ありがたいわね。良二、もう少し我慢して、早く元気になろうね」母親は息子の顔を覗き込むようにして微笑む。
母親の笑顔が何より好きな良二君は、コクンと笑顔で頷いた。
昭和35年(1960年)、タコちゃんこと良二君は、この春、小学5年生になった。
体育と音楽と絵を描くことが好きなタコちゃん。その日の図画工作の時間は、大好きな上野の山の文化会館を写生する授業だった。皆、散り散りに、正面から、少し斜めからと、自由に描いている。「僕はこの屋根と屋根の間が好きなんだ」と声には出さなかったが、遊び場である上野の山の地面に座り込んで、見上げるようにして描き始めた。
帰ってから色を付け、先生に提出し、すっかりその絵のことも忘れた頃、「中村君の絵が、御徒町の大和銀行に飾られています」と、
先生が授業の前に皆に伝えた。
先生が拍手をすると皆も揃ってタコちゃんを振り返り、拍手を送る。
タコちゃん、快挙!と普通なら大喜びのところだが、朝礼で表彰されると先生に言われた瞬間、もうその日、その時から落ち着かない!想像するだに恥ずかしい!賞状は右手、左手の順に押し戴くと親に言われても、そんな稽古を家でするのも恥ずかしい!
逃げよう、その日は休もうと、心に決めた日の朝、表彰された。
校長先生が呆気にとられる早さで、そそくさと症状を受け、自分のクラスの列に戻った。右手、左手と出したとは思うがあまり記憶にない。「叱られなかったんだし、ま、いいか!」と考えられるようになったタコちゃんだった。
その勢いに乗って、『蚊とハエをなくそう』のポスターでも表彰され、無口なタコちゃんは「ま、いいか!」に支えられ、少しずつ周りに心を開いていった。
時、同じくして、音楽の時間に習ったリコーダーで、その才能の蕾が開き始める。
耳から入った、といっても当時から右の耳はよく聴こえず、左耳が頼りだが、歌謡曲でもなんでも吹いてしまう。音を探しながら、指の押さえ方を工夫しながら、それが面白くて愉しくて仕方がない。
時の経つのも忘れ、宿題も忘れ、そろばん塾に行くのも忘れ、夢中になった。父親に逆らうことなどない良二君は「そろばんよりピアノがいいな」とは言えない。言わない。
「お母さんはオルガンも弾けるし歌も上手いから、わかってくれるかもしれない」と、心の中でブツブツ。
でもお父さんはきっとこう言う。「てめぇ馬鹿野郎、この野郎、職人の息子がピアノだとぉ!」
彼は、リコーダーの可能性をひたすら追求した。
5年生の夏休み、中村家はざわついていた。
良二君は例年通り、宿題は後回し、リコーダーの追求に余念がなかった。
それにしても入院したお母さんがなかなか帰って来ない。
「お姉ちゃん、お母さんはいつまで入院しているの?」
中学生のお姉ちゃんは、奥二重の目を見開いて、僕をを睨んだ。
その目にはみるみる涙が溜まって、いまにもこぼれ落ちそうだった。
僕は逃げるように二階へ駆け上がった。
9月2日に、お母さんは家に帰ることなく僕の前からいなくなった。
入院したら治ると聞いていたのに、腎臓病で亡くなった。
お父さんは怒って神棚を叩き落とした。お姉ちゃんはただ泣いていた。
僕は階段の途中に腰掛けて、お母さんのことを思い出した。笑顔しか思い出せない。
思い出すと涙が溢れる。思い出さないようにしよう。お母さんはこの家のどこかに居る、
すぐそばに居る。でも、思い出さないようにしよう。
お父さんの「てめぇ、この野郎!」も聞かれなくなった。
いつも慌てん坊のお姉ちゃんが、大人しくしている。
お母さんの笑顔がなくなったら、家族の笑顔もなくなった。
良二君は階段の途中に腰掛け、リコーダーを吹く。
お母さんの好きな、守屋浩の『僕は泣いちっち』だ。
お母さんが元気な時に吹いてあげれば良かったなぁ。
『僕は泣いちっち、横向いてないちっち、、、』
階下に居るお父さんにもお姉ちゃんにも聞こえているだろう。
もう、泣くのはこれっきりにしようね。
僕は、これから、ちょっとひょうきんなタコちゃんになるから。
