戦後生まれとは言っても、私の世代は朝鮮戦争の時期に生まれ、物心つく頃には海の向こうで
ベトナム戦争が始まっていた。「もはや戦後ではない!」と、ことある度に耳にしたが、たしかに自国での戦争は無いが、ベトナム戦争は続いており、現代には到底及ばないけれど、その情報は入ってきていた。
昭和30年(1955年)頃、国内では、若者の夢や希望が前向きに自由に語られていた一方、戦争経験者のなかには罪の意識に苛まれ、新たな時代の波に乗り切れない大人も居た。
ただ殆どの日本人は自由で豊かな国になるよう身を粉にして働いていた。豊かな経済力に憧れるあまり、豊かな心、豊かな自国の文化を忘れがちになっていたような気もするが。
とは言え、戦争に負けた小さな島国に向かって、世界中の音楽が集まってきた。小さな国土では消化し切れないほどの各国のカルチャーに、若者も大人も飛びついていた。
1966年、昭和41年の春、良二君は中学校の担任に勧められるまま、北区にある駿台学園高等学校の普通科に進んだ。何の準備もせず、野球がしたい!もっと音楽を聴きたい!
映画を見たい!という、父親に言わせれば不届き千万な息子だが、こんな僕を受け入れてくれるところがあるんだと正直驚いていた。
クラスには馴染みの顔はなかった。チュー君こと廣田君も一緒に受験したけれど、同じクラスではない。
やったあ!これでタコとは呼ばれない!
担任の生田目先生には、早速「ためさん」と自分なりの呼び名を付けた。怖い顔の下に優しさがのぞく。
その、ためさん曰く「まだ互いを知らないだろうから、1学期のクラス委員は受験時の成績順で決めていく」
その時、初めて、僕は普通科の進学コースだと知ったのだが、選んだ覚えもない。一体誰が勝手に決めるんだ。でもまぁ、進学コースだろうが、クラス委員だろうが、僕には関係ないことだと、俯きながら、心の中でつぶやく。
ためさんは次々読み上げていく。「風紀委員には、中村君、中村良二君ね」
思わず頭を上げる。ためさんと目が合う。えーっ?と心の中で叫びつつ、ぽかんとしてしまう。「まさか!」
電車に乗り、帰る道々、良二君は思った、「上には上がいる、でも、下には下がいるもんだ、、、」
翌日には念願の野球部に入った。
廣田君とは、もし野球部がなかったら二人で作ろうとまで言っていたので、嬉しくて嬉しくて身体も心も大きく弾んでいた。
早速、髪を切りに行く。隣が床屋だけど、話しかけられるのも恥ずかしいから、離れた床屋を探す。運動靴に財布を持って愛車で出かける。野球部は通常は三分、夏合宿は五厘に揃えると、先輩に教えられた。
前髪を揃えていた坊ちゃん刈り風に別れを告げると、急に大人になった気がする。
修行中のお坊さんにも見える。お姉ちゃんが見たら、「りょうじ、変、変!」と指差して笑うだろうな。
恥ずかしがり屋の僕が意を決してお父さんに話す時、いつでも台所で聞き耳を立てているお姉ちゃんが引っかき回す。
そう、あの時もそうだった。
高校入学の少し前のこと、「グレートレース」のジャック・レモンに感動し、俳優になりたい!人を喜ばせ、笑わせる側になりたい!と意を決して、お父さんに伝えた時、お父さんは仕事の手を止め、メガネの奥から僕の心を押し測るように言った。
「自由を得るてぇことは責任をとるってぇことだぞ」
この時は「てめぇ、馬鹿野郎、この野郎」の枕詞がなかった。
正直言ってよく意味は分からなかったけれど、僕は好きなことは続けられると思い、「はい!」と言った瞬間だった。
居間と台所の仕切りのガラス戸がガラっと開いて、「タコみたいに口を尖らせてしゃべる人が、俳優なんてなれるの!」と、お姉ちゃんはサザエさんのように僕を指差して笑った。
野球部の朝練が始まった。5時に家を出ると、ちょっと強面の高校生が、前になったり後ろになったり、同じ格好で同じ電車に乗り、同じ駅で降りる、、そして野球部の部室に入って行く。
50人からの新人部員、到底顔も名前も覚え切れない。
昼用のお弁当は当然早弁をするので、夕方、練習を終える頃はお腹は空ききっている。帰りは時折、御徒町駅構内の蕎麦屋で、カツ丼を食べていた。
ある日、カウンターで黙々とカツ丼を食べていると、「あっ!」という声、ふと声の方を見ると、あの強面高校生、多分、野球部、と目が合ってしまった。「中学は?」と聞かれ、「御徒町、、、そっちは?」「駒形、、」と愛想の無い短い会話が交わされた。
これが、長い付き合いになる恩田君との出会いだった。
それにしても高校生になった良二君は、やりたい事、観たいもの、聴きたいものが山ほどあった。野球部に席を置きつつ、芝居のしの字もわからないので「劇団ひまわり」にも通い、新宿の「ACB」、池袋の「ドラム」、地元アメ横の「トーキョー」などのジャズ喫茶でライブに酔いしれ、東宝の映画「社長シリーズ」や「クレージーキャッツ」に大笑いし、合間に池袋のボーリング場の中華屋で「スッチンタンメン、リャンコ〜」と、中国語を学びつつ発声練習もできるバイトをもこなすという、慌ただしさであった。
それでもまだまだ観たい舞台や映画、欲しいレコードもある。お小遣いとバイト代を足しても足りない、、、そこで彼は考えた。お姉ちゃんにお弁当を二つ作ってもらい、一つは自分で食べ、もう一つはクラスあるいは部活で売る、、、お姉ちゃんは頑張る弟のため、気合いを入れて大きな栄養豊かなお弁当を毎日二つずつ作る、、、。評判が良いので二つとも売る、大きなお弁当は半分ずつにして売る、、、美味しいパン屋も少なく、ましてやコンビニなど無い時代、、、予約が入るほどよく売れた。
斯くして、良二流のエンターテインメントの下地は、お姉ちゃんの美味しいお弁当によって培われた。
高校2年の冬、日劇ウエスタンカーニバルのチケットを手に入れ、廣田君と二人、意気揚々と有楽町へ出かけた。
山手線に揺られながら、中学生の頃に行った飯能のハイキング話になった。
飯盒炊爨(はんごうすいさん)までは良かったが「結局、帰りは疲れ果て、ヒッチハイクをしたよな」と、チュー君、いや廣田君が苦笑い。
ヒッチハイクと言えば、アメリカのドラマでは、気のいいお兄ちゃんが乗るトラックとか、後ろならどうぞ、なんて云う老夫婦が現れたりするのだが、一向にそんな車は現れない。都合よくスケッチブックとマジックペンを持って来た、なんてわけはない。飯能の駅まででいいから乗せてくれないか、道路の脇に立ち腕を突き出し、一縷の望みを親指に託す。だが、車もトラックも止まらない、どうしようかと迷ってもくれなかった。
「世の中そんなに甘くないんだなぁと、あの時学んだ」と廣田君がしみじみ言ったので、顔を見合わせて笑ってしまった。今日は、何を話してもどんなことが起きても許してしまう笑顔と高揚感に満ちていた。
有楽町駅から日劇まで人人人の群れ、入場のために並んでいるのか、当日のチケットを買おうとしているのか。とにかく列に並び、順番を待った。
あと少し、という所で、女性に声をかけられた。
「君たち、ちょっと」と列を離れさせられた。「な、な、なんだ?」二人とも声には出さないが、その女性と向き合った。「どこから来たの?君たち何歳?学校は?住所は?」
矢継ぎ早の質問に、精一杯答える。彼女は補導員だった。
ウエスタンカーニバル見たさに家出して来たと思われたかと、必死に説明をした。
だが、どうも、高校生は入場禁止らしい。僕らは坊主頭で詰襟の制服を着ていた。
「あ〜あ」これも声には出さず、二人して肩を落とし、俯いた。
手にはチケットを握りしめたままだ。
女性補導員は二人の顔を見比べながら「君たちは、今日が初めてのようだし、入場券も買っちゃったことだし、今日だけは見逃すから、観て帰りなさい」
記憶の中の女性補導員は、天使のように両手を差し出し、僕らを導き微笑んだ。
僕らは翔び発つ天使のようにその手を取り、微笑みを返した。
野球部・バイト・ジャズ喫茶・劇場・映画館を梯子する日々のなか、良二君は高校3年生
になった。
俳優を志して初めて、大きなオーディションを受けることになり、ワクワクと緊張の日々を過ごした。
それは、黒澤明監督の映画「トラ・トラ・トラ」だった。
