「もうタコちゃんとは呼ばせない!」

ひょうきんなタコちゃんになろうと心に誓ったばかりなのに、教室ではやはり下を向いてしまう。お姉ちゃんは少しずつ笑ったり、おやつのお菓子を忘れずに食べたり、お母さんの代わりにご飯を作ったり、何度も失敗したり、明るいお姉ちゃんに戻りつつあった。
お父さんの仕事は僕にはよく分からなかったが、名刺には「貴金属工芸品彩金」と書かれていて、金や銀を溶かして、工芸品や美術品に彩金するのよ、とお姉ちゃんは言っていたが、
分かったような分からないような説明で、出来上がった仕事を自転車で届ける以外は、玄関の隣で居間に続く作業場で木の机に向かっていた。仕事の最中はずっとラジオを付けていて、
ごきげんの良い時は流れる歌に合わせて口ずさんでいる。その背中には目が付いているのかと思うほど、僕のやっていることはお見通しだった。

お母さんが亡くなってしばらくは、鼻歌も出なかったし、その背中はなんだか寂しそうで、
夕ご飯を食べた後、決まって、お父さんは自転車で出かけて行く。
お姉ちゃんや僕が寝る前には戻ってくるけれど、古い自転車はギーギー音を鳴らし、お父さんは酔っ払ってフラフラ、立て付けの悪い引き戸をガタガタ言わせて、玄関に座り込む。
そこまで飲まなくてもいいのに、と思った途端、口をついて出た。『♪ちょいと一杯のつもりで飲んで〜 いつの間にやらはしご酒〜♪』植木等の「スーダラ節」だ。お姉ちゃんは、マズイ!という目をしたが、酔っ払っているお父さんには聞こえていない。
僕は機嫌のいいお父さんのように鼻歌で、『♪わかっちゃいるけど やめられない アホレ、スイスイ スーダララッタ スラスラスイスイスイ スイスイスーダララッタスラスラスイスイスイ〜♪』
お父さんがギロリと睨んだ「りょうじっ!!」
その後のことは憶えていない。

その日から「スーダラ節」は僕の持ち歌となり、お母さんの甥の嘉久兄ちゃんがお線香をあげに来た時も、植木等のように腕と足を振りながら歌った。お父さんもお姉ちゃんも、何度見ても楽しそうに笑う。そうするとお母さんの思い出話まで、楽しいものになる。
笑顔っていいな、歌っている僕も元気になる。
ようやく中村家に笑顔が戻り、家の中では「ひょうきんな良二くん」が誕生した。

学校では、「ひょうきんなタコちゃん」にはなかなかなれないけれど、良二君の活動範囲は広がって行った。
上野の山は勿論のこと、ハスの花咲く不忍池から湯島へ、上野広小路では松坂屋のエスカレーターの下りを走って上り、東大の本郷キャンパスにある三四郎池で魚を釣ろうと潜り込んだり、タガが外れたタコちゃんは、顔をぐいっと上げ、8本の足を駆使し縦横無尽に遊び回った。

そんな小学6年生のこと、5月の第二日曜の「母の日」を前に学校でカーネーションの造花がくばられた。安全ピンで服に留めることができるものだ。みんなが赤いカーネーションをもらった後で、タコちゃんは白いカーネーションを先生から渡された。

お母さんが居る子は赤、お母さんが居ない子は白。明るく元気にやんちゃに過ごしていたたこちゃんは、久々に傷ついた。
お母さんが居たから、僕は生まれたんだ。居ないんじゃない!お母さん姿は見えないけど、いつでも傍にいると、お姉ちゃんも言っていた。
家に帰ってから、赤い絵の具で花びらを赤くした。
思い出すと悲しくなるから、普段は思い出さないようにしていたお母さんの笑顔が浮かんだ。
まだらになった赤いカーネーションを、胸には付けず、お仏壇にあげ手を合わせる。
「お母さん、ありがとう」と3回、良二くんは声に出した。

母親の死をきっかけに、真っ赤になって俯くタコちゃんは、音楽に救われ、人の笑顔に勇気をもらい、遊び場を広げ、気持ちを開放し、いつのまにかゴールデンエイジの自由さを享受していた。

昭和38年(1963年)4月、良二君は台東区立御徒町中学校に入学した。
西町小学校より、家から少し遠くなったが、歩いて10分とかからない。
御徒町の先まで遊び場だったので、自分の縄張りうちだった。
中学校に入れば、他の小学校出身者もいるから、「もう、タコちゃんとは呼ばせない!」と心からワクワクしていた。
その上、大好きな野球を始められる。部活は野球部と決めていた。なんと言っても長嶋は彼のヒーローだった。

放課後、野球部を訪ねようとしたが見つからない。誰かに聞いてみようかと狭い運動場をウロウロしていると、幼馴染みで同学年の廣田くんが近づいてきた。
「お〜い、タコ、今年から野球部は廃部になったって〜。僕もタコと一緒に入ろうと思っていたんだ。なんだよ〜。野球部は無くなったってさ」
「え〜〜っ!!」二重のショックだった。

しばらく、廣田君の顔を見つめていた。
タコと、遠慮なく言う廣田くんは、小学生の頃、チューくんと呼ばれていた。
顔がネズミに似ているからか、、、僕は中学校に入ったらチュー君ではなく、廣田くんと呼ぶつもりだった。僕からそう呼べば彼も中村君、良二、に変わって行くかと勝手に信じていた。
甘かった!
思えば小学生の頃、考えに考えて、面白いと思って付けたあだ名で呼び合っていた。
おこのぎ君は、音がこおろぎに似ている→コオロギといえば、便所こおろぎ→なぜかコオロギを取って→ベンジョ。清水はシミーズから、シミチョロ、シミを取って、チョロ。おこのぎくんはベンジョ、清水君はチョロになった。
あだ名の付け方も、音から入るものと見た目から入るものとあるんだなと、二重のショックの中で考えた。

「タコ、どうするの?」廣田君に聞かれ
「あ〜、どうしよう」と応えながら、野球部で活躍する中村君の姿は運動場の青い空に消えた、、、僕は中学生になってもタコなのだ。

数日後、タコちゃんは、柔道部に入った。
何故に柔道部?自問自答しつつ、高校では何がなんでも野球部、野球部があることが条件、だから今は身体を鍛えておこう。その程度のノリで柔道部へ入ると、毎日、走った後は一年生は受け身の稽古。受け身を覚えると次は相手と組むのだが、受け身のうちは堪えられたが、向かい合うと臭い!もちろん部室は、数倍臭い!毎回、もどしそうになるのをこらえる、稽古のきつさに耐えるのならまだしも、匂いに耐えられなくなって柔道部を去った。

この柔道部の経験が、36年後に柔道の組手から社交ダンスのタンゴに変わって行く舞台の演目になるとは、さすがのタコちゃんも想像だにしなかっただろう。

中学校入学のお祝いに、お父さんから自転車を贈られた。その頃流行りのスポーツタイプの
グリップハンドルで、御徒町中学の野球部が廃部になったショックを和らげてくれた。
そして何より自分の足で漕ぎ続けたら何処へでも行ける。

ある日曜、サンダル履きのまま、自転車に跨がりぶらっと出かけた。季節は秋、風を切るだけで心地よい昼下がり、ふっとどこまで行けるのか行ってみよう、足を止めることなくグングン漕いで行く。信じられない早さで、風景が飛んでいく。何処を目指しているわけでもなく、只々走る、風を切る。初めて出会う風景を目の端で捉えながら、只々進む、街を過ぎ緑が増えて、初めてここはどこだ?道路沿いに看板が見える、相模湖まで〇〇キロ、〇〇が見えない、えっ、相模湖って、東京じゃない?! 気がつけば薄暗く、緑の葉は色づき、山道を登っていることにも気づかなかったのか。
戻ろう!僕は元来、気が小さいのだと今思い出した、急に足が重くなる。電車で帰りたくてもお金も持っていない。しかもサンダル履きだ。湧き水をみつけた、神様ってやっぱりいるんだ!葉っぱを避けてゴクンゴクン、あっという間に暗くなって行く。ひたすら来た道を戻る、漕ぐ、もう泣きそうだった、泣くのは家に帰ってからにしよう、帰ろう帰ろう!街の灯りが見える、すこしホッとする、でも足は休めない、お尻も痛い、トラックや自動車の数の多さに驚く、行きは気づかなかった、ふくらはぎも腿もパンパンだぁ、、、必死に漕いでいると
「てめえ、馬鹿野郎この野郎、がんばれよ!」お父さんの笑顔が浮かんだ、
あっ、昭和通りだ!、ようやく、戻ってきた!

その時、通り沿いの交番のお巡りさんに止められた。
「はい、君、止まってえ!、、、こんな時間にどこへ行くのかな?」
僕はすぐに声も出ず、かなり怪しまれていると思った。
「住所とお父さんの名前を教えて」
僕はお巡りさんと話すのは初めてだ。
「は、はい、、ち、ち、父上は、中村常次郎、住所は南稲荷町で」
父というつもりが緊張のあまり、父上に。
「ほう、父上がしっかり育ててくれたんだね。心配しているといけない。早く家に帰りなさい」

僕はどこをどう通って昭和通りにたどり着いたのか、全く憶えていなかったけれど、父上と姉上のもとに帰った。

それからの良二君は、頑張ってくれた自転車を大事に乗り続けた。
出かける時は、決してサンダル履きではなく、靴を履き、お財布も忘れなかった。

昭和39年(1964年)10月10日、東京オリンピックが開催された。
手塚治虫の描いた漫画の通り、2年前に開通した首都高速道路や、オリンピックを目指して新幹線も東名高速道路も全線ではないが開通し、三波春夫の歌う「東京五輪音頭」は、運動会でも盆踊りでも皆踊り、又、テレビでも街角でも「♪オリンピックの顔と顔 ソレトトントトトント 顔と顔~♪」が、明るい声で流れていた。
僕がお小遣いを貯めて買った初めてのギターも、「禁じられた遊び」から、時折、「五輪音頭」の弾き語りになってしまうほどだ。お父さんでさえ「てやんでえ、♪トトントトトント 顔と顔~ アソレ トトントトトント 顔と顔~♪」と機嫌良くと口ずさむ。

スポーツを観るのもやるのも大好きな僕は、特に水泳のショランダー選手のクロールに目を見張った。美しい!なんて美しいクロールだ、無駄がない、無駄がないってこんなにも美しく早く泳げるのか、、、小さい頃から電車賃を握りしめて通った千駄ヶ谷のプールで泳ぐ自分を想像した。美しい、無駄がない、早い。水泳の3大要素を見つけた気がして、興奮して学校でも話した。
そんなお祭りが終わると、あっという間にお正月になり、お年玉を貯めてアイススケートに
足繁く通う。クラスでは高校受験の話もチラホラ出ていたが、僕は野球さえできればいいと、努力なしで受かるところでいい、お父さんもそう期待をしているわけではない。
その頃、母方の従兄弟が都立の北高から芸大の作曲科へ入っていた。僕は、都立上野高校を受け、その後芸大へ行ったら、小学校から大学まで歩いて行ける、ずっと公立だ、、、てなこと、あるわけないよ。わかっちゃいるけど、暇な頭で妄想していた。
もし一言でも言ってしまったら、「てめえ、この野郎、馬鹿野郎」の雷が落ちる。

僕は何になりたいのか、何をしたいのか、好きなことは沢山あるけれど、こんな恥ずかしがり屋に何ができるのか、、、簡単には答えが出ない。
まっ、なんとかなるか!

3年生の冬休み、皆、受験勉強に勤しんでいる頃、良二君は、苦労を共にした愛車で銀座へ出かけた。小さい頃は暗くなると泣き出した映画館だったが、少しだけ大人になり、ひとり映像と向き合う誰にもじゃまされない想像の時間、そこに身を置く幸せを感じながら観た映画は、トニー・カーティス、ナタリー・ウッド、ジャック・レモンが出演する『グレートレース』
だった。

途中に休憩の入る長い映画は、ニューヨークからパリまでの自動車レースを描いたコメディーで、ジャック・レモン演ずる教授の助手がピーター・フォーク(後に刑事コロンボを演じた)が、失敗を繰り返す。その度に『マーーックス!』と怒鳴るのが、ドタバタで面白く、その度に良二君は大声で笑った。
恥ずかしがり屋のタコちゃんが、何にも縛られず、自分を解放して笑った。
中欧の皇太子と、悪役の教授の二役を演じたジャック・レモンのとりこになった。

あんなふうになりたい!こんなにも人を笑わせ、楽しませ、元気付けてくれる。
恥ずかしがり屋なんてクソ喰らえ!
恥ずかしがり屋を解放させ、元気にさせる側に、提供する側になればいいんだ!

俳優なんて考えたこともなかったけれど、俳優になって、真っ赤になって俯く自分では無い、映画や舞台の役を演じて、恥ずかしがり屋を喜ばせる側になりたい。
そうか、俳優か。そうだ、俳優になろう!
十四歳の冬、タコちゃんは密かに決意した。

 

新規会員募集中