港区の麻布十番にある「つづきスタジオ」では、多くのアーティストのリハーサルが行われる。
アーティストというと、芸術家・美術家をイメージしていたものだが、いつごろからか歌手全般、アイドルさえも、アーティストと呼ばれる日本の音楽業界が、最も華やかな時代。1980年代から1990年代半ばは、その時代をリードするステージ、礎になるようなライブがいくつも創り出された。
1984年の龍史くんは、新宿の「黒鳥」のショー創りから解放され、大江千里・初のホールコンサートから始まり、松任谷由実「YUMING BLOOD」(ユーミン ブラッド)のリハーサルに追われていた。
ユーミンのリハーサル期間は1ヶ月どころではない。時代の余裕か、企業の協賛も多く、贅沢にリハーサルを重ねることができた。龍史くんは、2ヶ月あっても、それでも足りないと、
ミュージシャンを集めステップの稽古をする。
彫りの深い二枚目でステージでの立ち姿も美しい、ギターの市川祥治さんは、思わず茨城訛りで叫んだ「センセ、このステップ、一生忘れませ〜ん!」
前年までは、唯一龍史くんが師匠と呼ぶ大ちゃんこと村田大さん、続いて中川久美さんが振付を担当していた。当然、大人の気遣いで、ユーミンの顔を見ながらリハーサルを重ね、他のスタッフもコーラスもそれに倣っていたに違いない。ステージングによって演出意図も照明も変わるとは思っていない世代かもしれない。龍史くんには、誰かに倣う、アーティストの顔色を窺う、リハはこうあるべきだも無く、キャストを後ろに控えさせたまま、独り、鏡に向かう。自分を見ているのではない。見えない何か、ずっと先の何かを見つめている。
なかなか動かない。
ある時、舞台監督の大塚さんから電話があった。私も以前から知っているので、明るく電話の応対をする。「あの、龍史さんに言ってくれないかな。スタジオに入る前に振り付けを考えてくるようにって。進まないと、皆困るんだよね。じゃあ」と、言うだけ言って電話は切られた。
ふーんと私は頭を傾げる。家では楽曲を何度も何度も聴いて聴いてイメージを膨らませていく龍史くんだ。それでも振りが生まれてこないこともあるだろう。
時間がかかっても彼ならより良い初日を迎えさせてくれる。と、私は信じている。
追い討ちをかけるようにステージプロデューサーの大橋さんからも電話が入る「居なくなってしまうんだよね、龍史さん、リハーサル中に。評判、悪いよ、ひらめ」
「ひらめ」とは、二人で考えた事務所名で、南青山のアパートで出会った、野良猫の血筋をひく気丈で気ままで気位の高いお嬢様の名前、因みに漢字で書くと「比良女」となる。どうでもいいんだけど。。。
ひらめが評判が悪いと言われても、正直、意味がわからない。舞台監督の言っていたことも含め、龍史くんに伝えるのをどうしようかと悩む。お二人とも、それぞれの立場と都合で、やりにくい、言うことを聞いてくれない、何なんだ!何様だ!というところか。きっと良妻といわれる人は黙って夫を信じるか、遠回しにやんわり伝えるか、そんなとこだろうか。龍史くんは、子供の頃のように、その場から、鏡の中のトンネルに心を飛ばしているのだろう。何かが降りてくるのを待っているのだ。クリエイター同士なら容易にわかることでも、どうであれ前に進めたい、すぐに出来ないのは怠慢だとする立場のスタッフは、創り手の過程を想像はできても理解はできない。龍史くんに言えないから、立場的に弱いと思われる私にぶつけたのではないか。
私は信じている。龍史くんは、それらスタッフの想像を越えるところで、今までにないユーミンの世界を、松任谷由実とコーラス(松木美和子・秋元薫)の身体を通して、創り出すことを。でも、やはり、むかつく。これはちょっとした弱いものいじめではないか?良妻でもなく、しかも狭量の私は、現場の様子を聞くことから始めた。
鏡の中の自分、その向こうに見えるユーミンとコーラス。PAのシゲジー(現在、SCアライアンス取締役)に音を出してと、鏡越しに頼む。同じことを繰り返す僕を沢山の目が見つめている。
稽古の回数を重ねると僕の振付が止まった瞬間、「ナカムラセンセに振りが降りてくるまで私は待つから」と、ユーミンは率先して本を読み待ってくれるようになった。
溢れるほど降りてくることもあれば、ふっと止まることもある。昨日より今日のこれだ!と思った瞬間に、昨日の振りは忘れてください!こちらに変えますと、僕は伝える。落胆した顔のコーラスを尻目に新たに振りを付け直していく。
そう、僕はわがままです。創り出す作業に正直です。アシスタントも持たないから、相手が覚えてくれるまで何度も踊ってみせる。そのうちにペコと呼ばれるコーラスの松木さんが一緒に踊り、細かい振りを補佐してくれるようになった。
ユーミンファンは、何をやっても喜ぶだろう。僕は、ユーミンのコンサートを初めて観る、さして興味もないのに連れてこられた観客が、出たばかりのアルバムに入っている知らない楽曲を、先ずは目で楽しみ、いつの間にか五感で楽しめるコンサート、エンターテイメントショーになれば良いと勝手に思っていた。楽曲の素晴らしさは歳を重ねても色褪せず、
踊らないユーミンがただ立って歌っている姿も想像しつつ、今、この時だからやれることを僕はやる。
「ダウンタウンボーイ」の振付が終わった。その日、僕が他の打合せで早めにスタジオを出ようとドアに向かった途端、「とてもいいですね!この振付!」珍しくニコニコ顔の松任谷さんに話しかけられる。「ありがとうございます。明かり(照明)が楽しみですね!お先に!」
僕はそそくさとドアを開けた。嬉しいけれど、ちょっと嫌な予感がした。
翌日のリハーサルで松任谷さんは言った「ダウンタウンボーイが余りにもかっこよかったので、ステージ用に少し楽曲を延ばしました」
エッ、、、プロデューサーも舞台監督も知らん顔をしている。
振付にも起承転結がある。延ばしたからって、かっこよく見えるかどうかは別問題だ。
まぁ、何とかはするけれど、、、これから先の覚悟を強いられた気がする。
つづきスタジオのリハーサルを終え、通し稽古のために芝浦スタジオに移った。
私も龍史くんのKAWASAKIの後ろに乗り、一緒に出かける。
「僕はアシスタントもいないし、交代でお休みを取れるわけじゃないから、リハの様子を見て抜け出すことはあるよ。迷惑はかかっていないはずだけど、気ままなセンセになっているんじゃないの」「ひらめちゃんと一緒ね」「そうだね。、、ほら、るみちゃん、海の匂いがするでしょ」
当時の芝浦スタジオは目の前が海だった。駐車場も完備されていて、世界の名車の中にKAWASAKIを滑り込ませる。「毎日、ここだといいわね!」「それこそ、僕は抜け出して泳いでいるかも」とにっこり笑った。
穏やかで幸せな「ディズニーランドの花火を見ながらビール」の、行徳での日々は一年も続かなかった。他の仕事でもつづきスタジオが多く、妹家族と離れるのは寂しかったが、彼の身体のことも考え、麻布二の橋へ転居した。
つづきへは歩いて行ける。お弁当も温かいうちに届けられる。それらが少しだけ、私の安心材料になった。
それにしても、いつでも頭の中は、新たなエンターテイメント創りを模索している龍史くんにとって、新人、アイドル、スターアーティストとの出会いは、その身体、その声を通して新たな世界を表現する絶好の機会であった。
だが同時に、技があり面白く存在感のあるコーラスやミュージシャンと出会うたびに、この人たちだけで何か新しい舞台が創れないかかと思案の日々が続いていた。
1980年代、コンサートの構成・演出・振付を一人で手がける龍史くんの活躍の場は、面白いように広がっていく。スタッフ三人分を一人で賄える彼は、稼いだお金を新たな舞台へ注ぎ込んでいく。
音楽系のおもしろメンバーを誘ってのエンターテイメントショーの幕開けも、近い。
💌💌語り手のつぶやき💌💌
毎回、書き忘れることも多く、たまに、時を戻したりもするのですが、1980年代から90年代にかけて、こんなこともあったと思い出される方がいらしたら、是非、ご連絡くださいませ。
Mr.&Mrs.NAKAMURA は、よく話し、新たな挑戦にも体ごとぶつかっていったな、と書きながら思い起こしています。いつもお読みいただきありがとうございます。
中村の年表ができましたら、これも又、うまくHPに載せたいと思っています。
引き続き、応援いただけたらありがたく、嬉しく。 留美子拝
